ここ数日、緩和ケアのことを書いてきましたが、
がん治療と、緩和ケアを並行でシッカリと、
おこなってくれる施設も、
都心近郊では、
僅かながら増えてきていることも事実です。
一方、最近、長寿大国日本では、
「健康寿命」という言葉があちこちから聞こえてきます。
不自由な身体になって、
命の灯火だけをつなぐのではなく、
生きている限り、
すこやかな毎日を送ることを願った言葉
だと思います。
その考え方は、
治らないがんに対する「標準」とは、
まったく矛盾するように感じます。
生きている限り、
穏やかな日常を奪ってしまう標準を、
最後まで勧めるよりは、
標準を早く止めて、
緩和ケアだけに移行するというのは、
少しは理解できます。
しかし、標準しかないのであれば、
そして、それを早く切り上げることを提唱するのであれば、
その標準の開始時期を、
細やか経過観察をおこなうことで、
少しでも遅らせることは、
明らかに「健康寿命」を延ばすことにつながるように感じます。
「標準」は、
寿命を僅かには延ばしてくれるかも知れません。
しかし、健康寿命は、
明らかに縮めるように感じます。
治らないがんを宿していても、
多くの患者さんは、
PS.0 または1.です。
すなわち、日常生活では、健康人です。
高齢者の健康寿命を延ばすことは、
日本の大きなビジネスになっているようです。
しかし、治らないがんでは、
まったく、その逆で、
健康で穏やかな時間を積極的に縮めることに、
巨大な資本が、海外からも投入されています。
なんだかな~
以上 文責 梅澤 充
著者に許可無く当ブログの文章をインターネットその他に転記・転載することは堅く禁じます。
がん治療と、緩和ケアを並行でシッカリと、
おこなってくれる施設も、
都心近郊では、
僅かながら増えてきていることも事実です。
一方、最近、長寿大国日本では、
「健康寿命」という言葉があちこちから聞こえてきます。
不自由な身体になって、
命の灯火だけをつなぐのではなく、
生きている限り、
すこやかな毎日を送ることを願った言葉
だと思います。
その考え方は、
治らないがんに対する「標準」とは、
まったく矛盾するように感じます。
生きている限り、
穏やかな日常を奪ってしまう標準を、
最後まで勧めるよりは、
標準を早く止めて、
緩和ケアだけに移行するというのは、
少しは理解できます。
しかし、標準しかないのであれば、
そして、それを早く切り上げることを提唱するのであれば、
その標準の開始時期を、
細やか経過観察をおこなうことで、
少しでも遅らせることは、
明らかに「健康寿命」を延ばすことにつながるように感じます。
「標準」は、
寿命を僅かには延ばしてくれるかも知れません。
しかし、健康寿命は、
明らかに縮めるように感じます。
治らないがんを宿していても、
多くの患者さんは、
PS.0 または1.です。
すなわち、日常生活では、健康人です。
高齢者の健康寿命を延ばすことは、
日本の大きなビジネスになっているようです。
しかし、治らないがんでは、
まったく、その逆で、
健康で穏やかな時間を積極的に縮めることに、
巨大な資本が、海外からも投入されています。
なんだかな~
以上 文責 梅澤 充
著者に許可無く当ブログの文章をインターネットその他に転記・転載することは堅く禁じます。