現在のがん医療の現場では、
「末期がん」と云う、
じつは優しい、そして真実である言葉は、
封印されてしまい、
治らないことが分かっているがんでも、
単純に進行がん
など表現されています。
治ることは期待できない末期がんであっても、
すぐに、「いのち」が終わるわけではありません。
したがって、
主治医が正確な情報を患者さんに伝えたならば、
患者さんご自身の人生設計を建てることも可能になりますが、
そんなことをしたら、
標準儀式を受ける患者さんは激減してしまいますから、
それはありません。
ところで、
その治らない末期がんに対する、
「標準」と云う厳しい儀式を受けた場合、
主治医先生から、
「効果無し」の判定を受けた場合、
体力が残っていれば、
ガイドライン上のセカンドラインに進み、
別の副作用に苦しむか、
それを嫌えば、
緩和ケアに行くことになります。
残念ですが、
それも標準では、
普通の流れです。
「標準」ではすべての患者さんが、
ファーストラインで終了にならずとも、
セカンドラインかサードラインで、
キツイ儀式は終了します。
その後は、
強く標準だけを勧めた主治医の口から、
「緩和ケアも治療です」
「緩和ケアのほうが長生きできます」
などと、
患者さんにとっては、
意味不明のインフォームドコンセントのもと、
緩和ケアで静かにその時を待ちます。
しかし、
「効いた」
「効果アリ」と、
判定された場合も、
それはラッキーだとは限りません。
その標準で、
副作用が容認可能であればイイのですが、
日常生活に支障を来すほどの副作用を伴ったうえでの効果であれば、
治らない末期がんの場合、
その副作用に、
終生悩まされることになります。
治らない病に対する治療では、
もしも、その治療による副作用という苦痛があれば、
それが治療と言えるのか否か、
患者さんが判断しなければ、
多くの場合、
医療者は「生の長さ」だけを、
尊重してしまいます。
本当にそれだけでイイのでしょうか。
以上 文責 梅澤 充
著者に許可無く当ブログの文章をインターネットその他に転記・転載することは堅く禁じます。
「末期がん」と云う、
じつは優しい、そして真実である言葉は、
封印されてしまい、
治らないことが分かっているがんでも、
単純に進行がん
など表現されています。
治ることは期待できない末期がんであっても、
すぐに、「いのち」が終わるわけではありません。
したがって、
主治医が正確な情報を患者さんに伝えたならば、
患者さんご自身の人生設計を建てることも可能になりますが、
そんなことをしたら、
標準儀式を受ける患者さんは激減してしまいますから、
それはありません。
ところで、
その治らない末期がんに対する、
「標準」と云う厳しい儀式を受けた場合、
主治医先生から、
「効果無し」の判定を受けた場合、
体力が残っていれば、
ガイドライン上のセカンドラインに進み、
別の副作用に苦しむか、
それを嫌えば、
緩和ケアに行くことになります。
残念ですが、
それも標準では、
普通の流れです。
「標準」ではすべての患者さんが、
ファーストラインで終了にならずとも、
セカンドラインかサードラインで、
キツイ儀式は終了します。
その後は、
強く標準だけを勧めた主治医の口から、
「緩和ケアも治療です」
「緩和ケアのほうが長生きできます」
などと、
患者さんにとっては、
意味不明のインフォームドコンセントのもと、
緩和ケアで静かにその時を待ちます。
しかし、
「効いた」
「効果アリ」と、
判定された場合も、
それはラッキーだとは限りません。
その標準で、
副作用が容認可能であればイイのですが、
日常生活に支障を来すほどの副作用を伴ったうえでの効果であれば、
治らない末期がんの場合、
その副作用に、
終生悩まされることになります。
治らない病に対する治療では、
もしも、その治療による副作用という苦痛があれば、
それが治療と言えるのか否か、
患者さんが判断しなければ、
多くの場合、
医療者は「生の長さ」だけを、
尊重してしまいます。
本当にそれだけでイイのでしょうか。
以上 文責 梅澤 充
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